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ミラーボウルは回らない

※ このお話は、2016年3月HARUコミにて無料配布しました。

※ 当日の新刊『ミラーボウルに雨が降る』の続きのお話ですが、これだけでも読めると思います。

 

 

 とあるナイトクラブでダンサーとして働いていたサンジは、ひとり海外へと留学していた。

 かつて劇場で出会った金髪の男のこと。そして同棲していたゾロのこと。2年の月日はサンジをひとりにして、何もかもゆっくりと忘れつつあった。

 

 ――神さまはただ見ているだけ。

 

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 すこしだけ開いた分厚いカーテンのすきまから、朝の光がすっと差し込む。冬の太陽はキラキラとまぶしく、サンジの薄いまぶたに木漏れ日をつくる。

 干したての布団をかぶり直すと、暖かい空気がふかふかとわだかまった。

 ――太陽のにおい。

 サンジはぼんやり考えて、もう一度柔らかな眠りに落ちていく。

 

 ピンポーン。

 つぎに目を覚ましたときには太陽はだいぶのぼっていて、カーテンの隙間からのぞく空は、薄いブルーに澄んでいた。

 サンジは少ししかめ面をして、ごしごしと目をこする。この国の朝は寒い。暖房のスイッチをつけようと、サイドテーブルに手を伸ばす。ひやり、と冷たい空気が布団のすきまから入り込んだ。昨夜もずいぶん冷えたのだろう。小さくあくびをしかけたところで、もう一度「その」音が聴こえた。

 ピンポーン。

 玄関のチャイムだった。サンジは覚えのないその音に、いぶかしげな気持ちで耳を傾けた。今日は人の来る予定もなかったはずだ。いきなり訪ねて来るほど仲の良い友人もいない。サンジはやはり不思議に思って、布団のなかで首を傾げた。郵便が届く予定でも、あったっけ?

 ピンポーン。

 はあ、とひとつため息をついて冷たい床に足をおろす。昨晩のアルコールが残った体が窮屈そうにギシギシと軋んだ。

 ピン、「はいはい」

 ガチャリ、と扉を開きながら重いまぶたをもう一度こする。アパルトメントの螺旋階段の踊り場、三階にふたつあるうちのひとつの部屋。寝ぼけたまぶたに光が落ちる。逆光のなかに立ち尽くす男。

 「……ゾロ?」

 「探した」

 男は扉の前に仁王立ちして、白い息を吐いていた。

 

 

 

 

 

 

 サンジが留学を決めてから、もうすぐ二年が過ぎようとしている。

 最初はダンスをいちからやり直そうと、自分ひとりで決めたことだった。

 負けたくない。

 それは居場所のなかった幼き頃に、胸に抱いたささやかな「希望」だった。その思いはサンジを支え、やがて膨らみ、弾けて、そうして少しずつ日常に溶けていった。

 夢はすこしずつ変わっていく。

 「おかげさまでこっちはすごくいい環境だよ。まいにち刺激ばかり受けてる」

 サンジはコーヒーをそそぎながら、ゾロの横顔に声をかける。

 部屋のなかは白い家具で統一されていて、アンティーク柄の壁紙が心地よい調和を生み出していた。青いストライプの三人掛けソファは、サンジのお気に入りのお昼寝スポットだ。手触りのよい薄い毛布がくしゃくしゃと丸めて置かれている。

 「はい。ちょっと熱いよ」

 「あぁ」

 ありがとう。

 そう言って、サンジの手からカップを受け取る。白い湯気がふわりと上がって、香ばしい香りが部屋に広がった。わずかに触れた指先がほんのりと熱に染まる気がする。

 DJの勉強をすることに決めたのは、ささやかなきっかけがあったからだ。今でも鮮烈に覚えている。二年前のある夜のことだ。

 その夜、サンジの踊っていたナイトクラブに金髪の男が連れられて来た。男は不服そうに煙草を吸って、見るからに憮然とした態度だった。かつてゾロとも出会ったその劇場は、当時人手をもとめていて、時折そうやってなかば強引に人が連れて来られることがあった。

 サンジはいつもどおり迎え入れて、半信半疑でステージに上がったことを覚えている。

 ――わぁぁ……っ!

 観客から歓声があがって、サンジは茫然と立ち尽くした。ダンスなんか踊ったことないと言っていた男は、軽々と華麗に宙を舞った。

 「……マイブラザーは、元気?」

 「あぁ、アイツのことか」

 ゾロはなんでもないという風に、頭を掻いて言葉を探す。

 「まぁ、それなりにやってんじゃねぇか。ダンスのことはよくわからんが、客からの人気はあるみてぇだ」

 そう言って、ひとくちコーヒーをすすって「うまい」と頷く。劇場の経営はうまく行っているようだった。きっと上手にやっているのだろう。飛行機、長かっただろ? と問いかければ、寝てたからわからん、と言葉が返った。

 

 今日は週に1度の休日だった。

 いつもは夕方から地下鉄に乗って、隣駅のクラブに顔を出している。昨日覚えた新しい技術が、今日の舞台で試される。陽気な黒人のDJがサンジの腕を見極める。新しい音楽と古い街並みが、美しいバランスで交差する街。

 「今日はミサがあるんだ。ついて来るだろ?」

 ジャケットを羽織りながら声をかけると、ゾロはわずかに眉を上げた。それでサンジは了解して、手持ちのマフラーをひとつ放ってやる。

 窓の外では教会の鐘が、リンゴンと街中に響いていた。響いては止み、また鳴らしては溶けていく。静かに教会へと向かう人々の列。日曜日の朝はすこしだけ、神聖な気持ちが胸に灯った。

 アパルトメントの螺旋階段を下りて、軋む木の扉を押し開ける。途端冷たい風が吹いてサンジはぶるりと身震いする。

 教会は家から5分ほど歩いた場所にひとつ、丘のうえにもうひとつあった。今日はどちらに行こうかなどと、煙草をふかしながらぼんやりと考える。

 ゾロに会うのはまるまる2年ぶりだった。

 こちらに来てからしばらくのうちは、ゾロから連絡を寄越してくることがあった。家のなかの物の位置だとか、一緒に行ったカフェの場所だとか。たわいもないその文面は、サンジをいくらか安心させた。「白い棚のうえから三番目だよ」そうやって、繋がっていることを確かめていた気がする。夜中にスマートフォンの画面がぼんやり光ると、かすかに心臓が跳ねる音がした。おはよう、おやすみ。たったそれだけで、「大丈夫」だと、そう思った。

 いつしか途絶えたやりとりに、心臓が痛まなくなったのはいつ頃だったか……。

 「あのオレンジ色の屋根」

 指を差した向こう側に小さな三角屋根が見えている。ちょうどまた十五分おきの鐘が鳴って、サンジはそっと目を瞑った。懐かしくも美しい音色だ。まるで夕日を見るときのように、柔らかに胸が軋む。

 ゾロは一歩うしろにさがって辺りを見回しながらついて来ていた。初めて見るものばかりできっと興味深いのだろう、玄関についている金のドアノブをじっと見たり、バルコニーの植物に目を細めていたりする。それを見るともなく見ていたサンジは、思わず「ははっ」と声をこぼした。

 「なんだ」

 「いや、なんでもない」

 サンジはふわり、と煙を吐いて短くなった煙草を噛む。舌のうえに広がった苦味は喉の奥へと流れて行った。

 

 

 「長かったな」

 「そう? 退屈だった?」

 

 教会の扉を出たタイミングで、ゾロがひとこと感想を述べた。悪かったな、付き合わせて。少しばかり申し訳なくなってそう答えてやれば、違ぇよ、と言葉が返る。違ェよ、ミサじゃなくて。

 「てめぇの、祈りの時間だ」

 「あ? あぁ、最後の」

 サンジはぽん、と手のひらを打って、そういえば、と思い返す。ミサが終わったあとは祈りの時間だった。それぞれが自由に時間をすごし、そうして日常に戻っていく。

 「今日はゾロがいたから。特別バージョン」

 「へぇ」

 分かったような分からないような相槌を打って、ゾロはサンジをちらりと見る。太陽は真上にのぼっていて、白い石畳を照らしている。

ほんの一瞬視線が交わって、サンジはそっとまぶたを伏せた。

こんなにも、恋しいのに。

こんなにも、近くにいるのに。

 「……祈ってたんだよ」

 お前とのことを。お前との、恋のことを。

 お前とはじめた恋の最後を、どうか笑顔で終われますように、って――

 

 

 晩ご飯にはロールキャベツをトマトで煮込む、こっちで覚えた郷土料理を作った。スープにはキャベツのザワークラウトが入っていて、不思議な味だけれど妙に美味しい。

 ゾロはもぐもぐと丁寧に咀嚼を繰り返し、付け合わせのマッシュポテトまでぺろりと食べきった。重い赤ワインを二杯飲んで、「こりゃあ、いいな」と上機嫌だ。

 「美味しかった?」

 「あぁ」

 ゾロは頷き、わしわしと金の髪を撫でる。その懐かしいやり方にはうっかり胸がうずいていしまう。

 そうやってすぐに子ども扱いするのだ。まるで幼子になった気分だった。サンジに触れる指先が、全身が、「愛しい」と伝えてくる。

 サンジは困ったように笑って、それから頬にキスをした。

 こんなにも甘やかしておいて、一番大事なところはサンジの答えを待っている。

 「ずるいよ、ゾロ」

 「……あァ?」

 なんでもない。

 そう言って、キッチンの蛇口を思い切りひねる。ジャアジャアと流れる水の音がふたりの隙間を無遠慮に埋めていく。

 

 

 ひとりで寝るのには大きいベッドにサンジはごろりと横になった。最初の頃、ここにゾロがいればなんて、思ったことも一度や二度じゃない。ふたりでいた暖かな時間が、ひとりの時間を忘れさせていた。そうやってふとよみがえる感傷にも、いつの間にか慣れてしまった。

 ギシ、とベッドのスプリングが軋んでゾロの重みを乗せていく。

 「ん」

 掛け布団をめくってやれば、ゾロは言われるままそこに入り込んで来た。冬の夜は冷える。暖房のスイッチを消して、広い背中をうしろから抱きしめる。

 「ゾロ」

 愛しい名前を呼ぶ。

 「ゾロ」

 愛の言葉を紡ぐように。

 「ねぇ、」

 ほんの一瞬のためらいが、柔らかな宵闇に溶けていく。

 「キス、して」

 最後に。

 抱きしめられるのは、怖いから――

 

 おずおずと目を瞑り、冷えた唇をそっと寄せる。ゾロはわずかに逡巡して、それから何度もキスをした。

 唇の触れる優しい音が静かな部屋に響いている。

 どうしてここへ来たの。

 その答えを聞くのが怖くて、サンジはずっと言い出せないままだ。

 連絡が途切れて久しかった。もう忘れられているかと思っていた。それでもいい、と自分に言い聞かせた。離れる痛みを知っていた。

だから真実を知らないままならば、静かに忘れていけると思ったのに。

 「なぁ、俺たち」

 だったらいっそ、こっちから……。

 サンジはそっと息を吸い込む。

 「終わりにしようか」

 そうしてぎゅ、と目を瞑り、ゾロの胸に額を寄せた。

 なぁゾロ。そうやってお前は、大事なところは、いつも俺の答えを待ってばかりだ……――

 「……なに言ってんだ」

 ふいに聴こえたその声に、え、と呟いて顔をあげる。ゾロはじっとサンジを見つめたままで、ゆっくりと二度まばたきをした。

 「お前そうやって、なんでもひとりで決める癖、やめろよ」

 今度はサンジのほうがぱちぱちと瞬きをする番だ。

 「だってゾロ……そういう話をしに、来たんじゃ、」

 うろたえながら言葉をこぼすと、ふっ……と優しい笑みが零れた。「違ぇよ」そう言って、くしゃくしゃと金の頭を撫でる。

 「俺ァお前と一緒にいてぇんだ。一緒にいるっていうことは、ふたりの道をふたりで決めていくってことだ。そうやってなんでもかんでも一人で抱え込んでちゃ、本当にふたりで居ることはできねぇよ。お前はひとりに慣れ過ぎてんだ。もちっと頼ってくれてもいいじゃねぇか。なぁ、」

 

 はぁ、と息を吐き出してもう一度強く抱きしめられる。暖かな胸の温度が伝わってサンジの心臓をじん、と満たしていく。ふたりで決める、こと……。それって、どういうこと?

 「……てめぇの邪魔しねぇように黙ってたんだが」

 もう、いいだろ?

 そっと体を離して、寝ころんだまままっすぐに向き合う。夜の帳がふたりを包む。教会の鐘の音が聴こえる気がする。荘厳で暖かな懐かしい音色。ずっとずっとひとりだったあの頃。

 「結婚しよう」

 ゾロの指先が頬に触れる。温かな温度がふわりと溶ける。ぽろり、と静かに伝う涙はゾロの指に絡んで、落ちる。

 「……まだ、一緒にいて、いいの」

 「当たり前だろ」

 ふぅ、とため息を吐いて、ゾロが困ったように目尻を下げた。愛しいと、指先が語る。こんなにも温もりに包まれている。ひとりぼっちだと思いたかった幼い自分が溶けていく。

 「まだ、じゃねぇよ。ずっと、だ」

 神さまもいない寒い夜の隅っこに、内緒話を、ふたりきりで――

 

 

 

 「なぁアイツ、驚くかな」

 さらさらと手紙をしたためながらサンジは後ろを振り返った。

 ゾロはまだベッドのなかにいて、「ふぁ」と大きくあくびをしている。ごろん、と寝返りをうちながら、まだ眠そうにこちらに振り返る。

 「さぁな」

 適当に返事をして、ごそごそと布団にもぐり込む。朝ごはんはレタスサンドだよと伝えると、置いといてくれ、ともごもご声が返った。珍しく起きて来ないらしい。昨日の夜、遅くなったからね。

 「また一緒に踊ってくれるかなぁ」

 サンジはひとりごとのように呟いて、次の言葉を宙に探す。俺、結婚するんだ。また一緒にステージに立てるといいな……

 「待ってんじゃねぇか」

 布団のなかからくぐもった声が、眠そうにぼそぼそと聴こえてくる。部屋には暖房がきいているのに裸のゾロは寒いみたいだ。

 「たまには誰かに期待してみろよ。お前、結構愛されてんだから」

 ふあぁ、ともう一度あくびをこぼす。朝の光が部屋に満ちる。ガラス窓の向こうには澄んだ青が広がっている。白い雲が細くたなびいて澄んだ青空にひと筆を描く。石畳にねこが眠る。もうすぐ春がやってくる。

 

 

FIn

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