top of page

ヘルズ・キッチンの窓から

埃っぽい風が吹く。赤から青に変わる信号を待ちきれないようにクラクションが響く。駐禁の張り紙を貼られたキャデラックの脇をイエローキャブが我が物顔で通り過ぎる。
 街を行く若い女がコーヒーを片手に店を覗いた。個性的な水色の看板。目利きの客に鼻をきかせて店主がニヤリと手招きをする。
 ブラウンストーンで彩られたアパートがずっと先まで続いていた。点在する緑の木々が都会の喧騒を猛スピードで消化している。壊れかけた外階段。背景に迫る高層ビル。古きと新しきの混ざった街には色濃いエネルギーが渦巻いている。
 チェルシーまで出かけたついでに新しい皿を買ってきたと、何気なく振った話題に「へぇ」と気のない返事が返った。皿なんか、どれも一緒だろ。予想したとおりの台詞に思わず「だろうな」と言葉を返す。パステルグリーンに赤が映えてサラダは一層キラキラと輝いていた。抽象主義の隆盛でパリに次ぐ芸術の都となった街。ふらりと寄った小さな画廊で、思わず手に取った美しい陶器だった。
 ――まるで、アイツみたいだ。
 パサリ、と新聞紙のページをめくりながらゾロは視線を左に流した。ウォール街での窃盗事件に眉間の皺を深くする。
「今日も遅くなんのか?」
「あぁ。ちっと検挙が立て込んでてな。補助警察隊に腕がいいのが入ったのか、スリと置き引きが合わせて四件」
 上腕に三本ラインのワッペンがついてゾロの仕事は忙しくなった。デスクワークが増えたんだと、いつだったか酒の肴に零したことがある。キラリと光る金のハクトウワシ。気高きプライドを象徴するように。
「この人手不足に、ありがた迷惑な野郎だ」
 そう言ってバーガーを含む声にうんざりとした響きは、ない。
 サンジはカタリと席を立ってキッチンでコップにお湯をそそいだ。コポコポという軽やかな音色が朝のキッチンに立ちのぼる。銀の匙で粉を溶かす。ふわりと広がった甘いチョコレートの香りは柔らかに鼻腔をくすぐった。
 ホント、ガキみてぇ。そう言って笑ったサンジの唇に優しいキスが落ちたのは、一体いつのことだっただろう。唇の離れたそのすぐあとに、今度はサンジからキスをした。
 何度目かの夜を越え、何度目かの朝が来て、今日も同じ香りに包まれる。
「てめぇは今日は、休みか」
「いや、遅番。二時からでいいって、ボンちゃんが言ってたから」
 あぁ、あの、オカマの。そう言ってチラリとこちらに視線を寄越す。人の顔も名前も覚えないコイツが、珍しく覚えているボンちゃんは、美容学校を卒業後行くあてもなく路頭に迷っていたサンジを、ほとんど無理やり店に引き込んだ張本人だ。
『アンタのその、自信に裏打ちされた大胆さと、壊れそうなほどの繊細さ。両方が喧嘩しながら同在しているスタイルが、アチシとしては堪んないのよ』
 もとはと言えば食うつもりだったと、くねらせた腰に蹴りを見舞う。
「へぇ。繁盛してんのか」
「まぁ、それなりにな。てめぇに飯作ってやるくらいは」
 なら十分じゃねぇか。そう言って紙面に視線を戻す。ニューヨーク・タイムズの一面には物騒な見出しが踊っていた。顔色を変えず社説を読むゾロは、おそらくその件にも関わっているのだろう。全身すすだらけで帰った夜は酷く乱暴にサンジを抱く。
 ――何かを、「置いて」いってるんだ。
 単調なリズムで揺らされながらサンジはふと、そんなことを思う。
 重ねられた熱い掌が必死に何かを掴もうとしていた夜。
 花と散った幾つもの想いは、いったいどこに行くのだろう。
「なぁ」
 頬杖をつきながらサンジはふと声をかける。ゾロはパラリと新聞をめくってNBAの結果を拾っている。サンアントニオ・スパーズ。チームプレーを徹底したバスケによって、今年度の優勝が決定的となり――
「お前にとっての正義って、なんなの」
 頬袋を膨らませながらパテを頬張るゾロを見た。一定のリズムで繰り返される咀嚼。地下鉄の揺れ。雨の音。タクシーの後部座席。セックスのあと。
 混沌と、喧騒と、過去と、願いと、それから――――
「そんなの」
 ほんの一瞬落ちる静寂。
「明日も、あさっても、てめぇを抱きてぇ」
 それだけだ。
 顔も上げずに呟いてから、興味なさげに新聞を下げた。ふいに交わる視線のなかに、サンジはそっと光を探す。
 どうか。
 ――どうか今日も、生きて帰って来ますように。
「アホか。俺はそんな正義、ゴメンだね」
 フン、と笑った警官の頭に青い帽子を乗せてやる。腰に携えた鈍色の銃器が朝陽を反射してキラリと光る。なんだか宝石みたいに綺麗だ。
「じゃあ、いってくる」
「あぁ。……なぁゾロ、」
 追いかけるように重なる声にゾロがふいに立ち止まる。エントランスの豆球が切れてチカチカとオレンジを点滅させている。ふいに降りた青い沈黙。アンティーク時計の針が囁く。
「……いや、なんでもねェ。いってらっしゃい」
 スツールから立ち上がりかけたサンジの腕が、いきなり強い力で引っ張られる。バランスを失って崩れかけた体をゾロの全身が強く、包む。
 鼓動、体温、呼吸、まばたき。
 生きてる。今、ここに。それだけが確かなこと。
 誰かのために命を尽くし、重い正義を優しく背負って。
「ちゃんと、帰ってくる」
 静かに落ちる小さなキスをいつも通りにそっと受け取る。
 そうして眩しい朝陽の中、ゾロの背中は小さくなる。
 街を彩る喧騒が鮮やかな背景に溶けていく。
 まっすぐに伸びる通りの先。
 あと何度、あの背中を見送れるのだろう。
「――なんてな」
 己の感傷が馬鹿らしくなってサンジはふっと口端を歪めた。胸ポケットから取り出す煙草にそっと小さな火を灯す。命の燃える色と同じ、ゆらゆら揺れる静謐な赤。
 昨日と同じ今日が紡ぐ、同じ色をしたいつもの明日。
「さっ、洗濯物干して準備すっか」
 鳴り止まないクラクション、真っ赤なキャデラック、塗り替えられる水色の看板。
 その真ん中に街があって、窓があって、ふたりが生きて、世界は混沌と美しい。



(完)

bottom of page