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ハチミツ・ドロップ

――かはっ……。

喉の奥から吐き出したそれは、真っ赤な鮮血に染まっていた。

腹に2発、喰らった打撃に内臓のどこかがいっちまったらしい。

『チッ……最悪、だな』

サンジがぎろりと周囲を見渡せば、影の落ちた深い森に下衆た哂いが響き渡る。

地面をトンと蹴る間際、押さえたわき腹がぬるりとぬめった。あんなにのろい太刀筋をモロに喰らった自分が恐ろしく憎い。

『大したことねェのに。あんな弱ェ斬撃なんか』

――“アイツ”のに比べりゃあ……。

サンジはいきおい咳き込んで橙の空へと毒を散らす。厭に生温い指先が腹の底をしんと冷やす。

 

 

 

独りは危険だとすがる声を無理に振り切り森へ入った。

アイツがいなくなって七日目の朝のことだった。

どこかでまた迷子にでもなったかと、笑っていられたのは三日目まで。野生の帰巣本能でも働くのか多少の迷子ならば丸一日ほどで帰って来る。いくら阿呆の迷子マリモとはいえ厭に長い旅路だった。

「俺、行ってくるわ」

船長が静かに頷いて他のクルーは何も言わなくなった。

小さな風呂敷に握り飯を包み、軽やかな足取りで森へと向かう。高く上る紫の煙がふわふわと漂い風に流れた。

言い知れぬ不安を腹底へ押しやりサンジは奥へと独り、進む。

 

 

ゾロに惚れている、と気づいてしまったのはつい最近のことだった。

いつものようにキッチンで酒を煽るゾロに、適当なつまみを出してやっているときだった。

吹き渡る海風、穏やかな凪。明るい月は甲板に降りサニーの頭が白く染まっていた。

トレーニング後の水分補給も兼ねていたのだろう。ごくごくと水のように酒を飲み込むゾロの喉が、こくりこくりと上下していた。

「ごっそうさん」

――うまかった。

コトリと流しに皿を置きながら、ゾロは振り向きざまにそう、言った。

ゾロにとっては何気ないひとことだった。大体が獣のように直感と欲求に生きているような男である。嫌いな風呂は三日に一度、汗も流さずサンジを抱いた。

宵闇に乱れる己の呼吸はむしろ単調で冷ややかだったはずだ。

ただ高みを目指すだけの行為は無味な繰り返しにほど近かった。喧嘩の延長に始まった火遊びがその意味を変えぬまま、もう二年。

いつものように酒を飲んで、ついでに美味いつまみも食べて――

瞬間ドキリと乱れた鼓動をサンジは無視することができなかった。

『うまかった』

キリキリと痛む胸の奥。真っ赤に染まった熱い心臓がどくどくと甘い鼓動を打つ。

頬がやたらと熱っぽかった。よく見れば目には涙が溜まりきらきらと光を反射したかもしれない。

視線を合わせることすらせずゾロはキッチンを静かに去った。

何の変哲もない、いつもの夜。

『うまかった』

バタン、と閉まる扉の音。

サンジはその場を動くことができない。

 

 

 

びゅ、と耳を掠めた風の音に、サンジはひらりと身を翻した。

微かに切れた耳たぶの先から暖かな雫がぽたりと落ちる。

――クソ。

油断していたわけではなかった。

町の人々に話を聞けば「森には行くな」と口ぐちに忠告を受けた。

高値で売れる薬草を探し海賊どもがこぞって身を隠しているらしい。町人たちはみな「まるで戦争状態だ」と苦々しげに口を揃えた。

海軍すら近づけない無法地帯。ルールのない争いほどえげつないものはない。

ゾロを追って森に入ってからもなるほど気配は濃くなる一方だった。

アイツが殺られるわけはない。

しかし、とサンジは思考を廻らせる。ただでさえ右も左もわからぬファンタジスタ野郎のことだ。この深い森にいつの間にだか迷い込み、七日間、ろくな飯も喰わずほっつき歩いていたとしたら――

サンジの胸がざわざわと不穏の色に揺れていた。最悪の事態が脳裏をよぎる。

――どこ行きやがったクソ迷子……っ!

苛立ちに煙をふかしながら目に付いた石ころをトンと蹴飛ばす。

だからサンジは放たれた殺気を、つい1秒だけ読みそびれただけだった。

 

「っ……く、」

まじぃ。

そう思ったときには手足の力が抜け始めていた。

耳朶を掠めたのは簡単な飛び道具だった。まさかそれを避けきれないほどサンジの腕が鈍っていたわけではない。

ただほんの少しだけ、苛立っていたことは事実だった。

この場にアイツがいないことも、浮かんでは消えるアイツのムカつく笑顔も、アイツのことばかり想い出す自分のことも――

れっきとした、男を。そのうえ何を血迷ったか「あの」ゾロのことを、だ。混乱しても当然だった。

そういう甘いような苦いようなただ鬱陶しい感情がとにかく綯交ぜになってぐるぐると胸の内を回っていた。

果たしていつからだったか。どういうきっかけだったか。

全く覚えのないはずの胸の痛みはしかし、気付いてみれば確かに懐かしく、もうずっとずっと果てなく前から「ここ」に同在しているようだった。

矢尻の先には毒が仕掛けられていたらしい。

じんじんと痛む耳たぶの感覚が次第にふわふわと強弱を濁す。

ぜぇはぁと深く息を吐き出しながらサンジは「気配」に耳を向けた。取り囲むのはざっと100人ほどの輩だろう。一人でこの人数を蹴散らすことなど造作もないがただほんの少しばかり視界にはぼんやりと霞がかかっていた。

 

 

「はぁ……はぁ……ぅ、っ」

よろり、倒れかかった痩身を巨木に寄せぎりぎりの体力で立位を保つ。

ぼたぼたと堕ちる鮮血が美しい赤を夕陽に零した。

じりじりとにじり寄る醜悪な気配。それは間違っても「強さ」などでは決してなく例えるならば子犬がキャンキャンと騒ぐのに似た恐怖から来る興奮だった。

サンジはぐるりと周囲を見渡し、トン、とつま先で地面を蹴った。敵陣の真ん中にふわりと降り立ち重力に逆らって脚を上げる。戦うコックさんの見事な回転はくるくると敵陣を舐り倒す。

 

夕焼けに映える美しい舞は敵陣の輩を次々と跪かせた。サンジに構って欲しいのは残りが50人ほどだろうか。

『クソ、……血がもたねェ』

飛び散った美しい花びらは紛れもないコックの化身だった。流しすぎた血液がゆっくりと意識と蝕んでいく。

『どうする……』

ふ、と視線を上げたサンジが刀身を構えた輩を見つける。ぼんやりとした視界の中ぎらりと光る強い刃先を想い出す。野望のためなら死すら厭わない。世界一になると誓った男。

顔を合わせれば喧嘩をした、反吐が出るほど惚れた野郎――

 

「おい」

 

背後から聴きなれた低音が耳を突いて、サンジは振り向きもせず口を開いた。

「邪魔すんじゃねェ、クソマリモ」

反射的に放った悪態がべたつく空気にそろりと滲む。強がって哂った口元から真っ赤な粘液がごぽりと零れた。氷のように冷たい指先。毒の回りが早かったのか左手はすでに使えそうもない。

「死にかけてんな」

「……るせぇ」

背中合わせに重なる体温がサンジの心臓をふわりと包んだ。街角で、食料庫で、酷く抱き潰された夜を想い出す。どくどくと波立つ真っ赤な内蔵。死にかけた躰の中、確かに色めく淡い鼓動。

「――勝手に、死ぬな」

ぞっとするような低音を吐き出し野獣は静かに殺気を立てる。

湿った土を同時に蹴って、ふたりの影がひとつに震える。

空に突き上げる鋭い音色。深い森が耳鳴りのように共鳴する。

 

 

 

「――起きたか? あぁサンジ、よかった……あ、待て、ベッドから動いちゃダメだぞ」

青鼻の船医が心配そうに頭上からサンジを見下ろしていた。サンジは二、三度瞬きをして、天に向かって両手を伸ばす。

動きづらさに見下ろせば全身に巻き付く包帯が目に入った。ところどころに滲む紅は流しすぎた体液だろう。

「チョッパー。っ痛てて、……俺、いつから」

「もう喋るなサンジ。お前、ずっと眠ってたんだ」

起こしかけた体が押し返されサンジは再び宙を見上げる格好になる。

一体どのくらい眠っていたのだろう。

アイツが来て、雑魚を倒し、ついでに食料を巻き上げた。俺がついていたのだから船にはまっすぐに帰ったはずだ。点々と続いた赤の道、心配そうに駆け寄るナミさんの顔……。サンジは重い頭を抱え眉根を寄せてため息を吐いた。

どうやらその後からの記憶がすっぽりと抜け落ちているようだった。崩れ落ちる一番最後、遠くに見たのはキッチンの扉だったか――

「あんまり無理するな、サンジ。心配したんだぞ。すごい回復力だけど、まだ本調子じゃねェはずだ。なぁ、みんなには明日俺から伝えるから」

「あぁ、……いろいろ、悪ィなチョッパー」

船医はほっとした笑みを零し「じゃあな、おやすみ」と部屋を出た。

パタン、と閉まる軽い扉。随分と永いバカンスだったらしい。

夜の静寂が部屋を包んでいた。寄せては返す波の音。どうやら船は再び海に出ているようだった。

サンジはよいしょと体を起こし冷たい床に足をついた。そろりと医務室を抜け出して誰もいないキッチンへ向かう。

熱を持った全身が夜風に当たって心地がいい。カチリと音を立て染まるオレンジ。紫の煙が闇に流れる。波間に浮かぶ、黄色い満月。

 

「起きたのか」

 

はっと振り向いたその拍子に慌てて煙草を甲板に落とした。黒い影の伸びた先、月明かりに照らされた男が腕を組んで仁王立ちしている。緑眉根を寄せた凶悪な面。不機嫌に結ばれた強い口端。まるでほんのひと睨みで小動物くらい殺れそうな……。

「……夜の、お散歩だ。優雅だろ?」

「死に腐れやがったかと思った」

サンジの軽口を無視する格好で剣士はずぶりと言葉を吐いた。氷のように冷たい視線。一切の逃げ道を許さない男。

怒っている、のだとサンジは思う。

「はん、俺があんな雑魚に殺られるわけ、」

「油断してんじゃねェ」

ぐさり、と心臓に言葉が刺さった。油断していたわけじゃないなどと、どうして伝えることができるだろう。

飯を喰ったか心配して、どこで野垂れ死んだかと気になって、てめェの緑がチラついて――

言えるはずもなかった。ただ欲求を満たすだけの関係に、意味を探したのはサンジの方だ。

落ちた煙草を拾い上げサンジはふわりと煙を吐き出す。ふたりを撫ぜる夜の風。チラチラと揺れる金のピアス。何度も聴いた甘い金属音が耳の奥に波紋を残す。

 

――惚れているのは、俺だけだ。

 

「悪かったな、ただの死に損ないがのこのこ帰って来ちまってよ」

「俺が行かなきゃ、死んでた」

組んだ腕を解かぬままゾロは淡々と言葉を重ねた。革靴の裏が甲板に触れてコツ、と硬い音色を響かせる。威嚇のつもりかほんの半歩ほど近付いたゾロに途端ドキリと心臓が跳ねた。

真っ赤に震える熱い果実。

今すぐぎゅうと締め上げたいと思う。

こんな。――こんな邪魔な、感情なんか。

 

「あのまま犬死した方がよかったか? はっ、それもいいな。そしたら船長はてめェが守れよ。まぁアイツぁ一人で大抵のことはできちまうがな。あっ、ナミさん泣かせたら承知しねェぞ。あぁでも、俺がいなきゃてめェも森から出られずに骸骨になっちま、っ! は、なにっ、」

しやがる、と言いかけた台詞が喉の奥にごぽりと沈んだ。真っ白い包帯の巻き付く熱い体が硬い体に包まれていた。どくどくと煩い心臓の声。全身を包む熱い温度。汗臭い、ゾロの匂い。

「ばっ、……おいあほマリモ。今日はできねェよ。なに、溜まってんの?」

「……くな」

「あ?」

――行くな。

消え入りそうに静かな声がサンジの鼓膜をそろりと撫ぜた。

分厚い背中を伝わる温度。呼吸のたびに上下する肩。つう、と頬を流れた塩分が夜の潮風にさらさらと乾いた。

 

生きている、と思った。

 

「……どこへも行きゃしねェよ。俺が死んだと思ったか、あほマリモ」

「死なせねェよ。――まだ、愛し足りねぇんだよ」

ぎゅう、と強く抱きしめられてげほげほと酷い咳が転がる。病み上がりに何しやがると、ぎゃあぎゃあ騒いで大声を上げる。あちこちの部屋に電気が灯り次々にクルーが顔を見せる。青鼻の船医が叱り飛ばせば夜中の甲板はいっきに色めく。

 

 

遠く煌く星々が明日の旅路を囁かに彩っていた。

白い鳥が雲を分かち揺れる水面に月が溶ける。満月。

ぶるりと震えた広い背中が掌の温度をじわりと上げる。

――ほんの少しだけ。

次の夜は素直になろうと、できもしないくせに心臓が疼いた。

夜風に流す紫の煙。ハチミツ色の金の糸。

 

胸を焦がす熱い想いが、とろりと溶けて繋がるまで、あと、少し。

 

 

 

(完)

 

 

 

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