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カーテン・コール

 ライトの落ちた舞台の上で、ひとり、目を瞑る。

 ステージの上手から大股で10歩。

 何かに気づいて立ち止まり、目を見開いて、喉の奥へと言葉を飲み込む。

 ゆっくりと顔をあげて客席を振り返る。じっくり3秒の間をあける。

 「――――……」

 喉を詰まらせたような声で、あふれる想いを押し込めるように。

 水たまりに雫を落とすような静寂を、その瞬間に確かに感じる。

 

 

 

 

 「かんぱ~い!」

 賑やかなかけ声が響き渡ってグラスのぶつかる音が重なった。

 黄金の表面がぐらりと揺れると華やかな笑いがパッと散る。

 白く煙った店内に立ち込める、軽薄に甘辛い馴染みの匂い。

 透明な液体に氷が沈んで「カラン」と涼やかな音を立てた。

 「おいゾロ、飲んでっか?!」

 グラスを持ち上げて返事を返すと長鼻がげらげらと笑いを返した。「お前、相変わらずしぶいな!」そう言って、意味もないのに笑い転げる。

 ゾロはそれを見るともなく見てまんざらでもないように酒を煽った。ぐびり、と喉がひと鳴きすると腹の底が熱くなる。

 「ルフィ、まずは挨拶だァ、挨拶!」

 やんややんやと担がれてルフィと呼ばれた男が椅子に立ち上がる。

 「えー、ごほん。成功かどうかは客が決めることだ。俺たちにできることは……」

 飲んで食うこと!

 そう言って片手を突き出したルフィに、全員がそろって声を上げる。賑やかな店内には笑いが満ちて熱い夜に熱を放つ。

 

 

 

 都心からはずれた場所に建つその私立大学は、特にこれといった売りがなかった。

 男女共学の総合大学。花形の国文学科は年々受験生が減って、一番人気は経済学部だ。バイトがしやすいともっぱらの噂で偏差値は公立大学の少し下。電車の駅から歩いて15分、バス亭からは12分。周りには飲み屋街が広がっていて学生たちが夜な夜な集った。

 それでも都内であることが幸いしてか、学生は全国からやってきた。長期休暇にゃ街から人がいなくなるんだと、飲み屋のおやじがぼやいている。

 ゾロは自転車のペダルをこいでキャンパスの裏手に向かっていた。

 ゾロの所属する文学部棟は大学の一番東側にあって、西側の1号棟までは自転車でも5分はかかった。はずれた場所にある特権なのか、面積だけは無駄に広い。

 カラカラとチェーンの回る音が夏の風に吸い込まれていく。頬を撫ぜる風がぬるい。ゾロは大きくあくびを零して並木通りを右に曲がった。

 

 

 「よぉゾロ。しけた面してんな……イテテ」

 「……二日酔いか?」

 「うるせぇ、これでも朝からバイト行って来たんだ、アイタタ」

 ウソップが頭を抱え込んで革のソファに倒れ込んだ。扉を開けた瞬間鼻を突くのはいい加減馴染みのかびくさい匂いだ。穴の空いた革張りのソファはいつの頃から存在するのか、代々上級生が眠るためのベッドと化しているそれである。

 「お前、昨日あのあとどうしたんだよ」

 「帰った」

 「あいっかわらず真面目だなァ」

 ソファに小さくうずくまるようにしながらウソップがもごもごと言葉を零す。ゾロが知っているのは二次会までで、それから先は興味がなかった。四次会まで行ったんだと鼻高々に話すその4つ目の店のことを、ゾロはあえて聞かないでいる。

 「次の本番、来週末だよな」

 「そ。だから今日は人集まんねぇかも」

 ゾロはすたすたと部屋に入ってテーブルの上に鞄を放る。

 男ばかり15名ほどの部員が集まる演劇部。部室は片付いているとはお世辞にも言えなかった。乱雑に置かれた部隊の小道具と、何日も放置されているジャージ。壁にはこれまでの舞台のチラシと裸の女のポスターが交互に並んでいる。

 「ホールは借りてんだろ」

 「あぁ。鍵そこ置いてっから、勝手に持ってけ」

 俺は寝る。

 そう言ってウソップはソファに沈みすぐに寝息を立てはじめた。

 

 

 

 ゾロもまた都心に期待を込めて田舎から出て来た若者だった。

 もちろんこの大学の他の学生たちの例に漏れず、別段これといった学問を究めようと思って入って来たわけではない。

 中心に近い場所で、たくさんのことを吸収したい。

 それはずっと田舎で育ったからこその渇望にも似た欲求だった。

 ゾロは大学に入ってすぐに、芝居の世界にのめり込んだ。

 生まれて初めて出会ったその世界は果ての見えない大海原に思えた。

 

 「うし……」

 舞台に上がって靴を脱ぎ、あぐらを組んで目を瞑る。

 最初にやることはいつも決まっていた。舞台の匂い、温度、空気、音、そういうすべてを全身に感じてここの色に溶けたいと願う。

 「よろしくお願いします」

 小さな声で呟いてそっと目を開ける。目の前に広がる客席に広がる海を想像する。それは優しく凪いでいて、時折ざぶんと波を起こした。

 「……あ、」

 「ん?」

 突然、背後から声が聴こえてゾロはそちらを振り返った。

 明かりの落ちた舞台の上で人影がゆらりと形を崩す。

 「悪い、邪魔したかな」

 そいつはそう小さく言ってぽりぽりと頭を掻いた。目の覚めるような金髪。

 「そうじゃねぇけど……誰だ?」

 「あぁ、そうだよな。7月に入部したんだ。おまえには初めて会う」

 サンジだ。そう言って手を伸ばす。反射的につかんだ掌はうっすらと湿っていてひやりと冷たい。ゾロはわずかにどきりとしてそれを隠すように視線をそらした。

 「すごい緑だな。おまえ昨日三次会、いたか?」

 「いや。二次会で帰った」

 「あぁ。だからか」

 男は納得したように片眉を上げて困ったようににこりと笑った。ゾロはその顔をよく見たくて湿った暗がりに目を細める。

 「よろしく」

 そう言って、舞台のそでにはけていく。

 ゾロは茫然とそれを見送ってそれからゆっくりと目を瞑る。

 

 

 

 

 学生のやっているお遊び劇団。指導者がいるわけでもなく、正しい練習など本当はよくわかっていない。なにせ舞台の稽古よりも飲み会の回数が多いことだってある。

 「ゾロ、そこの部分、もっと声張った方がいいんじゃねぇか。スーパー悲しげに見えた方が納得いく」

 「あ~……いや、どちらかというと、滲み出る感じにしてぇんだが」

 「そしたら、うずくまってみるってのはどうだ? 大げさだけど。試しにやってみてくれよ」

 あれやこれやと意見を交わし、稽古は朝まで続くこともあった。仲間たちはみな不真面目だけど、舞台に対しては誠実だった。一生懸命さを笑う者がいないところがこの劇団の好きなところだ。

 

 「お疲れ~!」

 笑いあいながらジョッキを傾け、仲間が次々に口火を切る。

 舞台のあとの飲み会は緊張感から解放されてどの飲み会よりも楽しく感じる。

 「ゾロお前、いい顔してたなぁ」

 「そうか」

 「なんっだつれねぇな。もっと喜べよ」

 ほら笑え、と頬を持ち上げられてゾロはもごもごと言葉を濁す。

 どうも堅物のイメージらしい。そんなことはない、自分にだって不真面目さはあるし、さぼることも面倒くさくなることだってあった。好き嫌いだってないわけではないし人並みに欲も抱えている。多少口下手かもしれないが、周りのはしゃぎっぷりを見ていると「確かに、そうかもしれない」と思わないでもない。

 「よーうし、王様ゲームすんぞ」

 「はァ?! 女子いねぇじゃねぇか、誰が得するんだ!」

 げらげらと腹を抱えて笑う。悪ふざけは酒の勢いに任せて盛り上がり、いつものドンチャン騒ぎへと発展していく。

 「おれ王様! 1番と7番がディープキス!」

 ありがちな指示が響き渡り笑い声がいっそう大きくなる。誰だ誰だとはやし立てるウソップの鼻を掴んでゾロがすっと立ち上がった。

 「おいゾロかよ~!」

 「まじかよ、まさかお前ファーストキスじゃねぇだろうな!」

 げらげらと腹を抱えて仲間たちが笑いあう。酒はどんどん空になる。ゾロはその視線の先に、キスの相手を発見する。

 ――――金髪。

 「……よろしく?」

 ふわり、と首を傾げた様があの日の光景に上書きされた。

 

 

 

 

 二次会が終わって先に抜けたゾロは、ひとり家路についていた。

 電車はとっくに終わっていたが二駅分なら歩いて帰れる。大したバイトもしていないからゾロはいつだってお金がなかった。まぁ劇団員はそのくらいがいいよと、零した言葉に皆が笑う。

 「…………ん?」

 その目の端に見慣れた何かを捉えた気がして、ゾロはふと立ち止まった。ガード下の飲み屋が続く裏路地にはセンスの悪いネオンが光る。

 この辺りは一歩入ると風俗店が並ぶあたりだった。合法なのかどうなのか、怪しげな店が次々と目に入ってくる。学生たちはそのなかから「安心」できる店を選ぶ。代々受け継がれてきたそういう情報網を俺たちは次へと引き継いでいくのだろう。

 『…………あれは』

 ゾロが目を凝らして見ると一人の男が店の門をくぐるところだった。男はなんの迷いもなく、それでいて所在がなさそうに思えた。

 夜の間に風が吹く。街の喧騒が背景に消える。

 ふわり、と揺れた金色。

 「おまえ、何やってる」

 思わず掴んだ白い腕にスミの落書きがチラリと見える。

 「…………なにって、……」

 男は一瞬驚いたように振り返って、ゾロを見てわずかに目を見開いた。それから「あ」という顔をして、花がほころぶように笑った。

 ひやり、とする笑顔だった。

 「さっきのキス、気持ちよかった」

 そういって、腕を振りほどいて敷居をまたぐ。

 「あ、おいっ、待て」

 ゾロは一瞬たじろいでから、わき目もふらずに追いかけた。

 

 

 

 

 「…………ゾロ、でいいんだよな、名前」

 暗がりのベッドに腰掛けてサンジがゾロを見上げて言った。ゾロは所在なく頭を掻いて「そうだ」とたったひとこと返す。男が男を買う店だった。通用門から入ったサンジは、明らかに「内部」の人間である。

 「今日の演技、見た。かっこいいな、おまえ」

 三本目の煙草に火をつけながら視線を落としてサンジが言う。白い煙がふわりと広がってふたりの間にベールをかける。

 「おれ、ダンスの方が得意なんだ」

 見ただろ? そう言って柔らかに笑う。今回の演目はアメリカ、ブロードウェイが舞台だった。アメリカの経済成長期に、街から忘れ去られた小さな劇団。スラム街のようなその場所でひそかに熱意を燃やし続ける主人公が、ブロードウェイで花開くまでを追ったアメリカン青春ヒストリーだ。

 ゾロは演目を振り返ってサンジの姿を記憶に探した。名前のない役ではあったが確かにダンスは目立っていた。

 「本当はミュージカルが、好きなんだけど」

 練習のために、ね。そう言って紫煙をこぼす。安いベッドが「ギッ」とゆがむ。うつむき加減の首筋にはうっすらとかいた汗が見える。

 「そういうわけだから。帰れ、ゾロ」

 「は、」

 いきなり話の方向が変わって思わず無遠慮な声が出た。サンジはさして気にする様子もなく視線をそらして煙を流す。

 「おまえ、こういうところ来るタイプじゃねぇだろ」

 耳にかけた金糸がはらりと頬に落ちて表情を隠す。窓のない暗がりにベッドサイドの明かりが溶ける。

 わかるんだよ。

 そう言ったサンジの横顔に静かに影だけが落ちていった。

 わずかに緩んだ口元にゾロははっと息を飲む。

 「……そういうお前こそ、こんなとこで」

 なにやってる、と繋ぐはずの台詞が喉の奥でぐ、っと詰まった。いきなりベッドから立ち上がったサンジが、目前1センチに煙草の火を差し向けている。

 「知る必要のないことだ。ちょっと気安くなったからって、いきなり仲間面して詮索すんな」

 おれそういうの、大嫌い。

 目の前にかざされた赤い炎がチラチラと揺れて毒を流す。はらり、と落ちた白い灰はすすけた絨毯に降り積もる。薄い扉の向こうからは誰かの押し殺した声が聴こえる。

 「……邪魔する気はねぇよ」

 ゾロはサンジの手首を掴んでぐ、と下に押し戻した。案外素直に従ったサンジは腕からだらりと力を抜く。

 「ありがとう、助かるよ。だったらこの手、」

 「離さねぇ」

 ゾロは手首を握ったままサンジの瞳をまっすぐに覗く。青く濁った瞳の奥でゆらりと何かが揺れた気がする。

 ――どうして。

 ひやり、と冷たい感覚がゾロの背中を駆け上がる。一定のリズムで吐き出される息が至近距離でとろりと交わる。

 だったら、どうして。

 ――そんな、寂しい顔。

 「……お前、いくらで買えるんだ」

 喉奥から絞り出した声は微かに乾いて空気を揺らした。

 

 

 

 「ゾロっ、も、っ……と、奥ほしっ、苦し……っ あぁ」

 ぐ、と背中を仰け反らせ、濁った精をとろとろと吐く。腹下に組み伏せたスミの入った白い肌が声に合わせてふるりと震える。汗ではりついた金糸をかき分けゾロが額にキスを落とす。ぎゅ、と目を瞑るサンジの後孔はゾロをくわえ込んだままわずかに締まった。

 「おまえ、ちゃん、と、イっ……た……?」

 「あぁ」

 硬く押し込められた先端が痛いくらいに疼くのがわかる。辛いほどの悦楽の波が何度も心臓に押し寄せた。ゾロは密かに息を吐いてサンジの金糸をさらりと撫でる。とくとくと脈を打つ柔らかな心臓。俺としたことが。――ほんの一瞬、我を忘れた。

 「いつもこんなこと、やってんのか」

 思わず零れたその台詞にはべたついた感情がまとわりついた。ゾロはそれを自覚しながらサンジの腹が上下するのを見る。ただの、仲間。それは今でも変わりない。それ以上にもそれ以下にも、なれるはずのない関係性。

 ――――本当に?

 「気になるか……?」

 サンジはうっすらとまぶたを上げて覆いかぶさるゾロを見る。柔らかに視線が絡み合う。熱い吐息が混ざり合う。探り合うように空気を混ぜてサンジがふわりと笑みを零す。

 ゾロがさらりと金糸を撫でるとサンジはわずかに視線をそらした。その不器用なやり方はサンジの生き方そのものに見えた。

 「……ハハッ、悪くねぇな。そんでおまえは、またおれを買ってくれんのか」

 「あぁ」

 こともなげに頷けばサンジが不思議そうに目を丸くする。そのまぶたにキスを落とし、薄い鼓膜に声を届ける。

 「何遍でも買ってやる。てめぇが俺に惚れるまでな」

 締め付けてくる奥の熱は、きっと嘘をついていない。

 

 

 

 

 明かりの落ちた舞台の上。非常用のオレンジライト。静かに吸い込んだ深呼吸が誰もいない客席に吸い込まれる。

 10秒、たっぷり頭で数えてゆっくりと立ち上がる。

 背後の気配に耳を寄せると「キン」とジッポの音が聴こえる。

 「……買ってくれるんだろ」

 ぼわん、とホールに声が響く。甘やかな振動が心臓を揺さぶる。

 ゾロは後ろを振り返らずにその暖かな温度を待つ。

 「そろそろ惚れたか」

 「……どうかな」

 背中を包むぬるい体温。

 カーテン・コールの喝采が聴こえる。

 

 

 

 

(完)

 

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