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蒼色の白

「っ……おいクソマリモ! てめ、何やってんだ!」

静かな怒号が空気を震わせる。

船員たちの寝静まった夜。船底を撫でるさざ波が囁く。

雪崩れ込むように縫い付けられた床はひやりと冷たい微笑を返していた。

力の限りジタバタともがけば、無表情に整列した椅子がガタンと大きく不協和音を上げる。

ゴーイング・メリー号。

羊アタマの愛らしい船は穏やかな海のど真ん中。見慣れたキッチンは息を潜め重なる二人を見守っている。

「なに血迷ってんだマリモ野郎! てめェ三枚にオロされてぇのか!」

思わず掠れた声が漏れる。

誤魔化すように咳払いをしてサンジは真上のゾロを睨んだ。

 

 

酒だ、といつもの耳障りな催促が聞こえたのは月明かりの隠れる夜半のこと。

航海は順調。海の機嫌もまずまずで、前の島で手に入れた豊かな食材が目にも鮮やかだ。

サンジは全ての皿を洗い終わり、鼻歌交じりに冷蔵庫を覗き込んでいた。

声の主は振り返るまでもない。サンジは鼻歌をため息に変え、「チっ」とあからさまに舌打ちをする。

「酒だ、じゃねェだろクソアル中。次の島までしばらくあるってナミさんが言ってたの、聞いてなかったのか?」

ちったぁセーブしやがれ。

ぐるりと背後を見返れば、緑頭の仏頂面がこちらを見下ろしていた。

ふぅと煙を吐き出し、冷たい扉をガチャりと閉じる。

「……いちいちうるせぇな。ニコチン中毒のてめェに言われたかねぇ」

「あァ?! 俺は計算しながら吸ってっからノーカンだ。マリモみてェに呑気にぷかぷか浮かんでるワケじゃねぇんだよ」

「……」

ふん、と嫌味に鼻を鳴らし同時にぷいと顔を逸らす。

さも不愉快そうに眉をひそめたゾロはサンジの忠告に耳を貸そうともしない。

 

いつものことだった。

 

同じ船に乗り込んでからというもの顔を合わせれば喧嘩になった。

容易に剣を抜き、足を上げる。本気の喧嘩は時に船をも壊し航海士からの鉄拳を喰らうことも珍しくない。

原因など後になってしまえば思い出せないことがほとんどだった。

なんでこんなにも、ムカつくのか。

罵倒の応酬の最中、ふとした疑問が脳裏をよぎる。

小さく疼く胸の痛みは無理やり腹の底へと押し込んできた。

 

「はっ、だいたいてめェは朝から晩まで寝腐ってるだけだろうが。マリモに酒なんかもったいねェよ、てめェはその辺の塩水でも……なんだよ」

紫煙を燻らせた薄霞の先、ゾロの顔がぼうと浮かんでサンジは思わず言葉を詰まらせた。

――近い。

「退けろ、酒だ」

立ちはだかるサンジを押し退け、ゾロがずいと前方へ出る。

でかいわりにしなやかな身のこなし。

その軽やかさに、見慣れたいくつもの戦闘シーンをふいに思い出してサンジは片目を薄く閉じた。

斬りつける瞬間の、獣のように猛った、氷のように冷たい瞳。

「っと、おい盗っ人マリモ、何しやがる」

逃れようと翻した体をぐいと引いてサンジはギロリとゾロを睨めつけた。咄嗟に掴んだゾロの左手が僅かに熱く緊張している。

ゾロがゆるりと振り返る。

「……手ぇ離せ」

「やなこった。今日の酒は終わりだ。マリモの酒蒸しなんかまずくて喰えねェ」

面倒くさそうに目を細めたゾロに下唇を突き出し悪態を吐きつける。

酷く、イライラする。

「だいたい晩飯んときだって、てめぇはあんなに飲ん、ッて!」

ダン! という重い打撃音が狭いキッチンに響き渡った。

一瞬驚いたように強ばったサンジの広い背中は、冷たい壁に張り付いている。

至近距離に覗く、ゾロの顔面。

「っにすんだてめェ!!」

「……いちいちムカつくひよこアタマだな」

「あァ?! てめェの緑よりゃマシ、」

「ちったァ黙ってろ」

吐き出しかけたとびきりの罵声が乱暴に喉奥へと押し戻された。

不躾に重なる柔らかい感触。

瞬刻、サンジの唇が熱に染まる。

見開かれた蒼い瞳にはゆっくりと真っ赤な色が灯る。

 

「…………な、……にやってんだてめェ!!!」

思いきり振り切った右足はいとも簡単に脇腹を抉った。

ゾロは低く呻きを漏らし寸でのところで体勢を保ったようだった。ゆらり、と揺れるゾロの体。微かに滲む獣の情炎。

ゾロは腹を押さえて視線をあげると、もったいつけるように口端を舐めた。

信じらんねェ……。

――こいつ……俺に欲情してやがる……!

「どういうつもりだ! クソマリモ!!」

「……どうもこうもねェ」

唸るような低音にひやりと腹底が冷える。

「てめェを喰う」

「はァ?! 俺はマリモなんかに喰われるような趣味なんか、」

「コック」

ゾロの不器用な掌が横柄に頬を包む。サンジの心臓は壊れたように酷く激しく脈を打つ。

「……な、なに、血迷ってんだよ。目ェ覚ませアル中野郎」

「うるせぇ、俺ァ正気だ」

「正気の方がおかしいだろうが! なんだよお前そういう趣味あったのかよ。レディが抱けねェからって花開いちまったのか? ふん、それともなんだ、てめェまさか俺に惚れちまったとか、」

「んなことあるか! てめェのことなんざ、」

 

――大嫌いに決まってんだろ。

 

耳に届く色のない台詞。サンジはほっと胸を撫で下ろしそのまま床へと押し倒される。

 

 

「ってェなクソマリモ野郎! 何するつもりだ!」

「知るか! 見たくねェなら目でも瞑っとけ」

「はァ?! なんで俺が、」

「嫌いなんだろうが、俺のこと」

じいと見下ろす瞳が見える。緑に透けるエメラルドの海。

――嫌いなんだろうが、俺のこと。

「…………馬鹿野郎! 大嫌いに決まってんだろうが!」

 

クソっ――

 

胸の内に響いた静かな悪態が耳の奥でリフレインする。

暴かれた白いキャンバスに真っ赤な花びらがいくつも落ちる。

目の端に映り込む、滅茶苦茶に破り捨てられた青いシャツ。

飲み込まれた鋭い悲鳴が僅かに空いた隙間から零れる。

「や、め……! ぐ、っクソ……っ、そんな無理矢理」

「おいケツ緩めろ入んねェ」

「アホか! これ以上どうや、ん……っあぁ……ば、っか野郎……!」

――大嫌いに、決まってる。

白い喉が天を仰ぐ。

堪えきれず吐き出した白濁がキッチンの床を美しく汚す。

ぽたり、ぽたり、零れ落ちるのは船底に澱んだ後悔の雫だ。

 

「…………悪ぃ、先イった」

「……いや」

夜に溶ける戸惑いの音色。

そんな声、聴きたくもない。

「貸せ」

「あ?」

ぶっきらぼうに振り返り、目を瞑る。

口内に押し込める熱の塊。

「は、おい、コックてめェ、」

「イきてェんだろうが」

膝立ちのゾロから顔を持ち上げ、視線だけをちらと合わせる。

舌の上が、苦い。

「レディじゃなくて、悪かったな」

そうして静かに目を瞑る。

サンジは幾度もこみ上げる吐き気を飲み込み、劣情の塊を舐り上げる。

「っ、……お、おいコック、もう」

「……あぁ」

…………出せよ。

宵闇に溶けた呟きに、熱い白濁が絡みつく。

くしゃり、金糸をきつく掴んで、唸るように喉を鳴らす。

野獣は小さく腰を折って、眉間の皺を深く刻んだ。

 

 

「……よかった、……かよ、クソ剣士」

荒い呼吸を繰り返しながらゾロは薄目でそれを見下ろす。

色を失った緑の瞳は、目の前にひざまづく男を捉えた。

「俺の方が、嫌いだ」

誰にともなくそう呟いて、男は気怠そうに立ち上がる。乱れた金糸を撫で付けながら、敗れたシャツから煙草を取り出す。

「――大嫌いだ」

煙に溶ける淡い台詞。それは所在を失ったかのように、頼りなさげに空気を漂う。

穏やかな波が寄せては返す。

柔らかな月明かりが雲から零れる。

バタン、と閉まる扉の音を聞きながら、ゾロは脇に置かれた酒瓶を見遣った。

透明に揺れる瓶の底、酷く傷ついた蒼が沈む。

「なんなんだ……」

ゾロはぐしゃぐしゃと頭を掻いて、月明かり零れる窓を見上げた。

たなびく雲が薄い尾を引く。

冷たい風に花の色が滲む。

小さくついたため息には、微かな戸惑いがふわりと落ちる。

 

春の海は、もうすぐそこに。

穏やかに吹き渡る、桜の夜風。

 

 

 

(完)

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