top of page

殺し屋はバースデーソングを唄う

 ジャアジャアと水の跳ねる音が、タイルにぶつかって暗がりに響く。

 キュッ、と銀色の蛇口をしめて濡れた両手をハンカチで拭く。

 ついでに鏡のなかをのぞき込めば、整えた金髪が乱れているのが見えた。

 細い指先でうしろにかきあげながら、サンジーンは深々とため息を吐く。

 「こんなナリじゃ、レディに嫌われちまう」

 胸ポケットから小さなコームを取り出すと、片側の髪の毛を丁寧に撫でつける。口元に散った深紅の滴は、シルクのハンカチでゆっくりと拭き取った。

 ――午前0時20分。

 重い煙草に火をつけながら、鏡のなかの自分にニコリと笑いかける。

 鼻の奥に残る返り血の匂いに、ぞくり、とかすかに心臓がうずいた。

 

 

 

 サンジーンはクライアントからの依頼を受けて引き金を引く、いわゆる「殺し屋」だった。

 狙ったターゲットは百発百中。そして絶対に尻尾を掴ませない。その徹底した仕事ぶりから、サンジーンには上客が多かった。

 積りに積もった重い恨み。想いのすれ違う切ない結末。偽善に化けた余計なお世話や、頭のおかしい金持ちの道楽――

 殺しの依頼に至る背景は、実にさまざまだった。それはそうだなと同情に足ることもあれば、完全に違う世界を生きている者から理解不能の依頼が舞い込むこともある。

 サンジーンは依頼人から殺しを請け負うとき、できる限り理由を聞かない主義だった。

 見ず知らずの者とはいえ、他人の人生を覗き見しながら命を手にかけるのは後味が悪い。ただ淡々と仕事をこなし、決められた金を手に入れる。それ以外のすべてのことに、サンジーンの興味はなかった。

 午前0時。

 サンジが引き金を引くのは、いつもその時間と決めていた。「昨日」と「今日」の境目が溶けて、「時」が宙に浮くその、瞬間。

 「ハッピーバースデー。キミの新たな人生に乾杯」

 息を止めたサンジーンの背中を、ぞくぞくと熱が駆けあがる。軽やかな音色が響いて「今日」が「明日」へと溶けていく。

 そして真っ赤な返り血が飛び散る映像を、できるだけ目を見開いて焼き付ける。それはまるで美しい絵画のように、目の奥へと痕跡を残すのだった。

 

 

 

 新たな殺しの依頼が届いたのは、ある晴れた晩秋のことだった。

 「まだ若ェのに」

 サンジーンは情報屋から受け取ったペラ紙を、人差し指で弾いて重い煙草に火をつけた。

 わかっているのは住所と生年月日。凶悪そうな顔が睨み上げるようにこちらに向いている。同い年。サンジーンは特に感慨もなく、煙草の先に灯ったオレンジで顔写真をジジ……と焦がした。

 ――ナカムラ・ハンゾロウ。

 「辻斬り、か」

 そりゃ恨みも買う仕事だなァ、などとひとりごちて重い煙を吐き出した。ふわり、と立ち上った煙は、行き場を失って天井にまどろむ。古い窓枠がカタカタと鳴いて、冷たい風がしゅるりと入り込んだ。11月。もうすぐ、あの冷たいばかりの季節がやってくる。

 ばねが半分死んだボロボロのシングルベッドから、勢いをつけて立ち上がる。ベッドは「ギシッ」と錆びた音を立てて、乾いた空気をわずかに揺らした。

 

 

 明かりの落ちた雑居ビルの8階。テナントが撤退してガランとした空間に、割れた窓ガラスから風が吹き込んでいる。

 サンジーンはくわえ煙草に火をつけて、壊れたブラインドの隙間から下の通りを見下ろした。

 大通りから一本なかに入った、人通りの少ない狭い路地。石畳のほそい小道には、ドラム缶が風で転がっている。切れかかった電灯と、塀をのぼる小さな黒猫。凍えたような老人がひとり、どこかに向かって歩いている。

 この雑居ビルの向かいのビルは、やたらに派手な電飾をつけたラブホテルだった。ひねりのない下世話な看板が、夜の街に煌々と浮かび上がっている。その6階、ちょうど向こうの窓からはこちらが死角にはいる角部屋に、ハンゾロウはやって来る予定になっていた。安いハニートラップだった。片目を閉じてスコープを覗くと、真っ白なシーツがピンと張られているのが見える。

 「あれが真っ赤に染まるのか」

 ふーん、と息を吐いて、それからゆっくりと煙を吸い込む。ほこりとカビの混ざった不健康な空気が、汚れた肺をひたひたと満たしてゆく。たった独りで生きてきて、これからも生きてゆく。サンジーンが生きているのは、どこまでも灰色に染まった世界だ。

 「ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー……」

 口笛のようにささやかに、サンジーンはそっと口ずさむ。こんな汚れた世界に生きている己からの、せめてもの餞別だと思った。

 「ハッピバースデー、ディア……」

 カチリ、と金属の触れる音にサンジーンはすっ、と目を細める。白い喉仏の1ミリ先、美しく研がれた刃先が光る。

 「……初めまして、辻斬りサン?」

 「今すぐぶった斬られるのと、十秒後にぶった斬られるの、どっちがいい」

 地獄の底から響くような低音がサンジーンの鼓膜をびりびりと震わせた。射殺すような鋭い殺気が、背中をぞくぞくと駆け上がる。背中にぴたりと張り付く男。

 気配が、わからなかった。

 そんなことこれまでにただの一度もなかったことだ。ごくり、と鳴いた喉が、違う熱を伝えてくる。

 こんなヤツが、いるなんて知らない――

 「……どうせ斬られるなら、キモチイことしてからってのはどうだ。なぁ、辻斬りサン?」

 カチャリ、と引き金に指をかけて、銃口の先を男の下腹にねじり込む。辻斬りは「ふん」と鼻を鳴らして、それから小さく声を落とした。

 「いいじゃねぇか」

 ――天国見せて、イかせてやるよ。

 

 

 

 ノリのきいた真っ白なベッドに、なだれ込むように押し付けられる。抵抗する暇など与えられず、すべてを力づくで剥ぎとられる。カチャカチャとベルトをはずす手は、強引に押しのけられて軽々と引きちぎられる。おろしたての真っ白なスーツが暗い床に「パサリ」と無重力に落ちた。

 噛みつくように喉元をえぐられて、思わず「うっ」と声が漏れた。息の詰まるような鋭い痛みにサンジーンは「ハッ」と息を吐く。ハンゾロウはそれで一層興奮したように、荒い息を堪えてうなった。獣のような男の匂いが、喉の奥へと流れ落ちる。

 「あぁ……っ」

 両足首を片手でまとめあげ、ぐ、と上に持ち上げられる。尻までわずかに持ち上げられて、情けない姿を闇にさらす。あられもないその姿に、言いしれない恥辱がせり上がった。

 「まだ、なにもっ、ひ、ぁ」

 信じられない質量が、後孔をぐいぐいと押し広げる。たいした湿り気もないそこは、イヤイヤをするようにキュッと締まった。ハンゾロウはそんなことなどおかまいなしに、腰を深く進めていく。ず、ず、と深くなる挿入がサンジーンのなかを乱暴に開いていく。

 「ばか、あっ、無理やり、てめぇ……ッ」

 「ちっと黙れ。あとでヨくしてやる」

 猛獣は怒ったように吠えて、己を奥へと進めていった。殺されるよりもひどい心地だった。すぐにでも蹴り殺してやりたいのに、両足がふさがれていて自由がきかない。

 「てめぇ……あとでぶっ殺す」

 「さきに死ぬのはてめェのほうだ」

 ぐん、と最奥を突かれて思わず「あぁっ」と声が漏れる。それが存外熱に濡れていることに気づいて、サンジーンはハッと目を見開いた。ハンゾロウはニヤリ、と口元をゆがめ、それからもう一度最奥を突く。

 「あっ、やっ」

 つ、と頬をつたう透明な雫。喉を震わせる甘い母音。腰の奥からせりあがるのは、ほんの少しだけ浮ついた熱だ。

 「我慢すんな。存分に感じろ」

 「っせェ、誰が、てめぇ、なんか、に……あぁぁっ」

 抑えきれない嬌声が狭い部屋に反響する。窓から差し込む月明かりにハンゾロウの影が薄く伸びる。何度も何度も深く打ち付けられる快感がサンジーンの背中を駆けあがっていく。

 もっと深く。もっと強く。

 もっと欲しい。

 もっと、もっと――

 いつの間にかねだるように、うわごとのような台詞を繰り返す。はかり知れない快楽の波に体が、脳みそが、溺れていく。

 そして四度目に白濁を放ったあと、サンジーンの意識は夢へと落ちていった。それはまるで天国にのぼるような、美しいホワイト・アウトだった。

 

 

 

 

 「ん……」

 重いまぶたを無理やりこじ開け、まぶしい光に目を凝らす。体が重い。そう気づいた途端、不機嫌な表情で眉間にしわを寄せた。つるりとしたシルク素材が体にぐるりと巻き付いているのがわかる。真っ白な光の世界。

 「……ここは、天国、か?」

 「アホか。てめぇが行くのはどう考えても地獄だろ」

 耳慣れない低音が、頭のうえから降ってくる。サンジーンが視線をやれば、緑の着流しを羽織った凶悪な顔の男が見えた。窓からの光を遮るように、目の前に立ちはだかる。

 「……てめ、なんで」

 「おれのこと、殺す気なかっただろ。てめェ」

 ハンゾロウは淡々と吐きだしながら、ぼさぼさに髪の伸びた頭をばりばりとかく。

 「殺ろうと思えば殺れたろ。天下のゴルコ・サンジーンさんよ」

 「知ってたのか」

 サンジーンは大きなあくびをひとつこぼして、それから上半身をよいしょ、と起こした。昨晩野獣につけられた傷が、全身に独占欲をにじませている。

 「あ~……強ェ男が好きなんだ、おれ。てめぇみたいなの、ヤらずに死ねるかよ」

 「ハッ、言うじゃねぇか」

 ハンゾロウは短く笑って、それからニッと口元をゆがめた。殺気と、欲情と、嫉妬の混じった、ぞくぞくするような凶暴な顔。……いや、それだけ、か?

 「次にてめぇを斬るのは、てめぇがほかの男に抱かれたときだ」

 「……案外めんどくせェ野郎だな、おまえ」

 はぁ、とため息をついてベッドから立ち上がる。太陽を避けて生きて来た、真っ白な肌が陽の光に透ける。指を伸ばしてハンゾロウの頬に触れる。ごつごつと骨ばった荒い皮膚。つぶれた片目。柔らかな緑。こいつはいったいどうやって死ぬんだろう。

 「しょうがねぇなァ。見届けてやるよ、てめぇの死に際を」

 「ハッ! そりゃ最高の誕生日プレゼントだ!」

 ハンゾロウはカラカラと上機嫌そうに笑い、着流しを翻して窓から飛んだ。あっ、と声を出す間もなく、男は街へと消えていく。

 開け放された古い窓から、冬の気配が滑り込む。冷たい風。乾いた空気。キン、と澄んだ青い空。うっとうしいほどの快晴だった。もうすぐまた、あの季節がやってくる。

 冷たくて、温かい、あの季節が。

 「ハッピーバースデー。ディア、ハンゾロウ」

 机に転がっていた金のジッポから、オレンジの炎がシュボッと燃え上がる。重い煙が天井へとのぼる。

 行き場を失った安い毒は、窓からの風にふわり、と消えた。

 

 

 

(終)

 

― ハッピーバースデー、ゾロ! ―

bottom of page