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ZSオンリー新刊 『ふたり暮らし』 サンプル( 三種 )

(1) レット・イット・ビー ( Sample )

 

 

 

 

 カタタン……カタタン……カタタン……

規則的に繰り返す音が、古びた高架を不規則に揺らした。暖かい春の日。淡いクリーム色の電車のボディには桜色のラインがまっすぐに走っている。ゆっくりと上がった踏切のバーとともに止まっていた時間が滑り出した。

 「おっかしいな……」

 額にじんわりと汗を滲ませゾロは小さく声を零した。グレーのスーツの襟を直して「はぁ」と短い溜め息を落とす。

編集者と待ち合わせたのはよく行く馴染みの喫茶店だった。人のいい店主が一人できりもりする店だ。平日にはあまり客が入らないから邪魔が入らずちょうどいいと、サンドイッチと薄いコーヒー一杯で長居するのがゾロの日課だった。

今朝も九時半すぎに家を出たからきっかり十時に着くはずだった。ところがいくら角を曲がっても目的の店が見えて来ない。目を落とした腕時計の針は、いよいよ真昼を指そうかというところだ。

 「店、つぶれたのか」

 そりゃあ残念だな。ゾロは思って、何となくポケットを探った。携帯電話を持たずに出るから入っているのは小銭と家の鍵だけだった。

 春の日差しがキラキラと街を幸福の色に染めていた。都内から電車で三十分。通勤に便利なベッドタウンは大きな川を挟んで北側に繁華街が広がっている。駅や大手スーパーの立ち並ぶ通りには銀行や飲食店チェーンが軒を連ねる。その大通りの突き当りを少し入ったところ、色の落ちたアーケード街にはひと昔前のポップスが流れている。

 ゾロは店の捜索を諦めて午後からの予定を白紙に戻した。バイト先の弁当屋でお茶を買って、山手に向かって歩き出す。

小説家としての活動に、ゾロは大した意味を持っていなかった。

こつこつと書き溜めた作品はいつの間にか十を数えている。名もない雑誌社の主催する大した価値もない小さな賞。受賞と言えば聞こえはいいが、要は応募者の少ない賞をわざわざ狙って出しているだけ。これといって世間に自慢できるような華々しい経歴は残していない。

 川に沿った平地を抜けるとすぐに傾斜のついた坂道にぶつかった。それが平凡なこの街の唯一目立った特徴だった。山の斜面に並ぶ団地と細道で繋がる住宅街。それらを横目に見ながら坂は緩やかに続いている。大きくうねった最後のカーブを曲がり切る手前には、この街で唯一の大きな図書館があった。

二階の窓際の席からは、街のようすが一望できる。

川と、坂と、階段と、電車と。

 春霞に煙る街並み。静かに呼吸を続ける街は今日も穏やかに背伸びしている。

 「……どこだ、ここは」

 ゾロはぽりぽりと頭を掻いて辺りをぐるりと見回した。図書館を右手に見ながら道なりに進んだ先、いつもならばお気に入りの古本屋が見えて来るあたりのはずだった。

 ところがどんなに目を凝らして見てもお目当ての店が見つからない。あるのは桜の木が立ち並ぶロータリーと、その前に佇む小さな店だけ。

 『……まぁ、いいか』

 こういうことは、ゾロにはよくあることだった。

ゾロがこの街に越して来たのは商社勤めになった四年前だ。古い文化を守る一方で、新しきを受け入れる懐の深い街。家族連れの世帯が多く小学校だけでも三つある。常にあちこちで工事を見かけ、いつも新しい何かが生まれていた。

ゾロはこの街を気に入っていた。都会の喧騒から電車を走らせ景色が変わるあの瞬間。高いビルのない澄んだ空がぽっかりと青く広がっていく。

 ぼんやりと突っ立っていたゾロの脇を、青色のスクーターが通り過ぎた。軽快なエンジン音がやがて静かに息をひそめる。スクーターはゆっくりとロータリーを半周して小さな店の前で停止した。

 『……なんの店だ?』

ゾロはその光景に惹かれるように、桜並木に佇む店を見た。

レンガ造りの小さな店。

こじんまりした佇まいには異国の情緒が漂っていた。緑色の窓枠に、同じ緑色の木板の扉。二階建ての上の部屋には外開きの扉がついている。その扉を開けたところはどうやら小さなバルコニーになっているようだ。少し細めの煙突からは白い煙が上っている。

 スクーターを運転していたのは恰幅のいい老人だった。老人はゆっくりシートから降りると、歩いて玄関前を通り過ぎる。店の脇の小さな扉。どうやらそこが勝手口になっているらしい。ガチャリと錠の開く音がして、白い買い物袋をふたつぶら下げた老人は扉の向こうへ消えて行った。

 ゾロは一部始終を見届けると、元きた道を戻ろうとロータリーに背を向けた。古本屋が見つからないなら図書館に資料を探しに行こうか。春の風はさわさわ吹いて柔らかな髪の毛を撫ぜていく。暖かな空気が心地よく、夢でも見ているような気分だった。

キィ、キィ――――

ふと、踏み出しかけた足を止めてゾロはうしろを振り返った。

桜を運ぶ透明な風に、聴きなれない音が滲んだ気がしたのだ。

 キィ、……キキィ――――

 「何の音だ」

 ゾロは慎重に耳を傾け、音のする方へと意識を絞る。甲高い、猫が甘えて鳴くような音がどこからともなく漂っている。ゾロは半ば無意識に道を渡り、周囲の家々に耳をすませた。どうやらその不思議な音色は、例の店から聴こえているようだった。

 

 パタン――……

 後ろ手に扉を閉めてゾロは階下を見下ろした。

 「……すげぇな」

 店の前を通り過ぎた脇に佇む小さな扉。老人の消えていったその向こう側には、細い階段が下へと続いていた。ゾロは一歩踏み出して辺りをきょろきょろと観察する。屋根のついた階段の先には崖から張り出したテラスが見えていた。

 まるで童話の世界に入り込んだような風景だった。狭い階段は光を遮り、テラスの先に覗く街を一層キラキラと輝かせている。

 ゾロは一段一段確かめるように階段を下へ下っていった。空が青い。ここは半ば外みたいなものだったから、人の家に黙って入り込んでいるという罪悪感が薄かった。

 一歩段を下りるごとに、「音」はだんだんと輪郭をはっきりさせていた。ゾロは無意識に息を詰める。間違いない、この場所だ。

 十段と少し段を下って辿り着いたテラスは四畳ほどの広さだった。真ん中に置かれた木製のテーブルと、その隣にはふたつの椅子。テラスの端には観葉植物があって緑の葉を光に向かって伸ばしている。

 ――――いた。

 ゾロがそっと部屋を覗き込むとガラスの向こうに背中が見えた。

 音は確かにそこから聴こえていて、今や美しいメロディを奏でている。

『……金髪?』

 まっすぐに伸びた小さな背中と、不釣り合いなほどに大人びた音色。まるで神聖なものでも見るかのようにゾロは僅かに息を飲んだ。

――綺麗だ。

浮かんだのはまるで絵画を見ているような台詞だった。

ゾロは己の感覚を疑ってもっとよく見ようと体を乗り出した。そのとき、春風がビュウと大きく吹いて、カタカタと鳴いたガラス戸に少年はゆっくりと振り返った。

 

 

 

(2) 利休の庭 ( Sample )

 

 

薄雲のかかる卯月の午後。若葉もえる緑の露地。点々と続く飛び石の表面に儚く光る透明な打ち水。

 都の賑わいから離れた奥山にその小さな庵はあった。

 「……なんだ。ひとりで来たのか」

 派手な音を立てた引き戸がいきなり乱暴に開かれた。円い障子窓からは外の光が柔らかく差し込んでいる。サンジはそちらを見向きもしないまま熱い白湯を茶碗にそそぐ。

 「探した」

 「まぁ、そんなに荒ぶるなよ」

 ほら、とようやく男を見遣る。狭いにじり口には刀がつっかえ、男はうまく身動きが取れない。

 「茶室には、何も持って入らねぇ。それが作法だ」

 チッと大きな舌打ちが聞こえ、男はごそごそと腰元を探った。ガチャガチャと重い金属音がやむと、頭を下げて入室する。

 「これで満足か」

 「あぁ。ずいぶん身軽になったじゃねェか」

 ニッ、と口角を緩く上げてサンジはチラリと男を見た。手元ではゆるゆると茶せんを湿らせ、茶碗の湯を建水に捨てる。

 男は荒く息を吐きながら畳にどかりとあぐらを掻いた。胸のはだけた着流しが、い草で擦れて音を立てる。足袋くらい履いて来いと説教を垂れてやりたい気分だった。男は泥で汚れた袴の裾を適当に膝の下に入れている。

 「俺ァ呑気に茶なんかすすりに来たんじゃねェ」

 「まぁそう、慌てるな」

 時間はたっぷりある。

抹茶の盛られた茶碗のなかにお湯をすくってゆっくり注ぐ。二杯。三杯。そうして軽く茶碗を抑え柔らかな手つきで茶の葉を練りはじめた。

 しゃく、しゃく、と軽やかな音色が狭い部屋にゆるりと満ちる。茶せんを操る白い手首。開きかけた花の蕾が泡の道を往来する。

 男はじっと押し黙ったままサンジの点前を見つめていた。睨みつけるような鋭い視線がサンジの指に絡みつく。

 ――野獣だな。

 思ってサンジは笑みを浮かべる。ハッ……と零す短い息に男の眉間がぴくりと動いた。

 これだから、田舎の侍は。

 我慢のきかねェ獣に用はねぇと、突っぱねた腕を強く掴まれた。三寒四温の暖かな午後のことだ。だったら、どうすりゃいい。今にも襲いかかりそうなほど切羽詰った瞳で男は一歩、間合いを詰めた。春の木漏れ日が眩しかった。のどかな茶屋の勝手口。ご贔屓にしていた看板娘は助けを呼ぼうとおろおろしていた。

 『都から北へ三里。青の草庵だ』

 そう言って腕を振り払う。

 太陽は西に傾きはじめる。

 たった、それだけの約束だった。

 

 

 

(3) 虎と、神さまの落とし子の家 ( Sample )

 

 

 

 

 ガサガサ、と葉の擦れる音がしてサンジは真上へ飛び上がった。

 視線を巡らせるのは遥か下方。太い木の枝に片手でぶら下がって、真下を駆け抜ける猿の親子を見送る。

 ハッ、と小さく溜め息を吐けば抱えた紙袋からりんごが落ちた。ひとつ、ふたつ、みっつ。果実が地面に落ちる音に子猿がぴくりと立ち止まる。ねだるようにこちらを見上げる、丸く光る純粋な瞳。サンジは薄く口端を歪めて「やるよ」と小さく顎をしゃくった。

 トンッ、とつま先から地面に下りてサンジはパンパンと手をはたいた。

斜めに差し込む午後の光が木の葉にキラキラと乱反射している。冷気の残る山の空気。命の滲む木々の芽吹き。鼻腔をくすぐる甘い香りにサンジは思わず目を細めた。

「あンのチビ猿、一番イイの持って行きやがった」

 チッ、と小さく舌打ちを落としサンジはゆっくり山道を登る。里山で手に入れた真っ赤なりんごは芳醇な香りのアップルパイになる予定である。

 凍えるような冬を越え、新しい季節が巡っていた。

森の奥の小さな木小屋にサンジはひとりで暮らしていた。山は四季折々の食材を実らせ、澄んだ小川には魚が泳ぐ。春風の運ぶ暖かな風は雪解け水のせせらぎを運んでいた。

サンジの住む小さな木小屋は、傍目にもおんぼろに見えるそれだった。修繕を繰り返した壁や窓はつぎはぎだらけで風が吹き込む。容赦なく吹き付ける冷たい雨。しんしんと降り積もる重い雪。

鼻歌混じりに空を見上げ、紫の煙を青に流す。

その消えゆく先を視線で追いながらサンジは春の匂いに目をつむる。

 

二十年に一度、と言われる大寒波が二度も山を襲った冬だった。

身を切るような氷の吹雪が三日三晩と山を舐める。動物たちは息をひそめ、岩陰や洞窟で命を温める。

サンジはガチガチと歯を合わせ、必死の思いで薪をくべた。かじかむ指に吹きかけた吐息が毒の煙に混じって消える。

サンジがかろうじて生き延びることができたのは、里山で盗んだ食料があったからだった。

暖かいときには五日に一遍、寒くなったら十日に一遍。

薄いシャツに革の靴。砂糖、塩、お酢に醤油。

人里離れた山奥のなか、人間らしい生活のための最低限の物品や食料だ。

そもそも器用なたちである。時間ばかり有り余る山の生活では大抵のことは何とかできた。しかし厳しい山の女神さまはいつでもサンジに微笑んでくれるわけではなかった。

全身さえ乾き切る大干ばつや、延々続く長雨、落雷。

いつの頃からかサンジは里山に忍び入り、食材や衣服を調達するようになった。

もともと身のこなしは軽い。ましてや勝手知ったる森に逃げ込めばめったなことでは捕まらなかった。だいたい家人のいない頃合を見計らって、必要最小限をそっと頂戴する。

遠慮しているのだ、これでも。

サンジは思って閉口する。

盗みが露呈すると村人たちは「またやられた!」と声を揃えた。しかし「アイツの仕業だ」と銃口を向ける頃、すでにサンジは森の奥。彼らは狐のしっぽも掴めないまま、ギリギリと袖を噛むしかない。

 

 ピク、と背筋を震わせてサンジは静かに聞き耳を立てた。

 そんなわけだからサンジを追い立てるハンターの数は知れなかった。かつてのようにのんびりと、山道を歩いてばかりはいられない。

「……クソッ」

 いきなり体を翻したサンジは垂直に空へと舞い上がった。脇に抱えた茶袋から真っ赤なりんごがごろごろと落ちる。

 瞬間、草むらから飛び出す影に真上から強烈な踵落としを食らわせた。見事脳天を貫いた雷は、異様な気配を地面へと沈める。

 「――――ッ!」

苦痛に歪む低い呻きが深い森に残響を残した。

夕刻迫る森の懐。木の葉を揺らす穏やかな風。

逃げようともがく熱い体をサンジは全身で押さえつける。

『緑……?』

「――――ッ!!」

 山の全てを揺るがすような重い咆哮が空気を震わせる。サンジは思わず目を細め、それからまじまじとその体を見た。

 己の華奢な体躯の下、組み敷かれた「獣」が一頭。

 「ハ……虎?」

サンジがその細い腰でまたがっていたのは、紛れもない。

新緑の毛並みを真っ赤に染めた金の瞳の虎だった。

 

 

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